氷の王子は花の微笑みに弱い 《 第二章 03

 いま雨音は聞こえない。止んだのか、あるいは雨の降っていない遥か遠くまで来たというだけなのかもしれない。

(私、どうなるの? どこかの山に捨てられるのかしら……)

 あるいは海に投げ入れられるのかもしれない。
 そんな想像をすると、蒸して暑いくらいの馬車内だというのにゾッとして身が震えた。馬車のなかが薄暗いせいもあって、そういう嫌な想像ばかりしてしまう。
 馬の蹄と車輪の音が幾分か静かになった。馬車の揺れもしだいにおさまって、やがて停止する。

(目的地に着いた……?)

 山か、海か、あるいは川か。自然のなかで生きる術≪すべ≫を学んでおくべきだったと後悔していたとき、馬車の扉が開いた。
 アリアはまぶしさに目を細める。
 ぼんやりと視界のなかで目を凝らすと、そこが山や海のたぐいでないのがわかった。

「お邸≪やしき≫……?」

 つぶやくと、扉を開けた御者が「さようでございます」と言った。馬車が走り出したときあれほど呼びかけても沈黙していた御者がいまになって返事を寄越したことを皮肉に思いながらアリアは馬車を降りる。
 大きな門扉の向こうに広大な邸が横広く鎮座している。見たことのない――訪れたことのない邸宅だ。
 御者が門番に向かって一言、二言話をすると、門番は邸へ向かって小走りした。
 邸のなかから若い男性が出てくる。

「ようこそ、レディ・ロイド。さあどうぞ、邸のなかへ」
「……失礼ですが、あなたは?」

 社交界では見たことのない顔だ。

「ルーク・レヴィンです。どうぞよろしく」

 男性は頬にえくぼを作ってニッと微笑み、歩き出す。アリアは仕方なくそのあとについて行った。

(レヴィン――ということは、ここは……)

 アリアはあたりを見まわす。邸のまわりには農作地が広がっていた。
 辺境の地、レヴィン伯爵領。馬車で一日はかかる場所だと思っていたが、お尻が痛くなるほど休みなしに馬を走らせれば半日で着くらしい。
 辺境伯レヴィンはたしか壮年の男性なので、いま目の前を歩く若い男性は伯爵令息ということになる。
 伯爵邸のエントランスホールには様々な美術品が飾られていたが、それをのんびり鑑賞している暇≪いとま≫はない。

「ルーク様。申し訳ございませんが状況をご説明いただいてもよろしいですか。私はなにもわからぬまま馬車に乗ってここへ来たのです」
「あなたにはこれからこの邸に滞在していただきます。私の父の花嫁として」

 アリアは足を止めて驚愕する。

「は――なよめっ?」
「ええ。後妻ですがね」

 それは説明されずともわかる。伯爵が初婚ならばルークは存在しない。しかし問題はそこではない。

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