氷の王子は花の微笑みに弱い 《 第四章 03

 湖のほうばかり眺めていたせいで、その人がすぐうしろに来ていたことにまったく気がつかなかった。
 ドンッ、と痛いくらいに背中を押されてふらつく。
 両足は自分自身を支えきれず、斜め前へと倒れ込み、湖のなかへ落ちた。
 溺れるというような事態に陥らなかったのは、湖畔は底が見えるほど浅いおかげだ。

「つめたくて気持ちがいいでしょう?」

 高らかな声が頭上から降ってくる。
 シンディはアリアを見下ろして「ほほっ」と笑った。
 アリアは体の半分ほどが湖のつめたい水に浸かっていた。

「……そうです、ねっ」

 勢いよく立ち上がり、シンディの腕をつかんで引っ張る。

「ちょっ――」

 バシャンッと大きな水しぶきが上がった。湖畔に尻もちをついたシンディを「はぁ、はぁ」と息を荒げながら見やる。

「ほら、つめたくて気持ちがいいでしょう?」

 満面の笑顔で言うと、シンディの怒り狂ったようすでこぶしを湖面に打ち当てた。ふたたび、大きな水しぶきが上がる。

「ほんっとう、あなたの笑顔は鼻につくわ!」
「それはどうも」

 なかばやけになって、つっけんどんにそう返してアリアはドレスの裾をつまんで湖から出る。シンディもそれに続いた。もうこれ以上、アリアになにかする気はなさそうだった。渋面を浮かべてドレスの裾を絞っている。

「これから……どうなさるのですか」

 尋ねると、彼女の顔はますます渋くなった。

「……さぁ。ひとまず実家に帰って、そのあとはまたどこかの男を引っ掛けて悠々自適に暮らすわ。今度は絶対、子どものいない男にする。だから、あなたに哀れまれたり心配されたりする覚えなんかないわ。私はどこでだって上手くやっていけるんだから!」
「そ、そうですか」

 アリアが困ったような笑い顔になると、シンディは「ふんっ」と息巻いてそっぽを向き、去っていった。

「レディ・アリア!」

 護衛のふたりが駆けつける。離れたところからこちらのようすを伺っていたものと思われる。

「申し訳ございません、私が護衛を断ったばっかりに……。おふたりにお咎めがないよう、殿下に申し上げます」
「そのようなこと、よいのです。さあ、お早く邸のなかへ」

 遠くで「くしゅんっ」という声がした。つられて、アリアもまたくしゃみをするのだった。


 本邸で湯浴みをして、久しぶりに帰った私室で刺繍をしているところへサディアスがやって来る。

「シンディがきみを湖に突き落としたと報告を受けた」

 サディアスはひどく不機嫌だった。

「どこも怪我していないか?」

 アリアの隣に座り、彼女の体を手で撫でまわして全身を確かめる。

「どっ、どこも怪我などしておりません。それに、落ちたのは私だけではなく彼女も、です」

 アリアの無事を確認してもなお、サディアスは仏頂面のままだった。

「……シンディが咎められないよう、わざと彼女を湖に引き込んだのか」

 アリアは朗らかに笑う。

「いいえ。私だけ水に濡れたのでは癪だっただけです」

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