「コホン」
パトリックがわざとらしく咳払いをした。
アリアとサディアスはギクリとして顔を見合わせたあと、そっと離れる。
「あ――お兄様、申し訳ございません……。レヴィン伯爵から何らかの抗議があるかもしれません」
「いい、気にするな。そのときは僕が何とかする。そもそも、おまえがレヴィン伯爵に嫁ぐなどだれも認めていない。ねえ、殿下」
「まったくだ。よりによってレヴィン伯爵とは――悪質にも程がある」
先ほどまでとは打って変わってサディアスは恐ろしいまでの低い声でうなるように言った。サディアスはレヴィン伯爵の好色を知っていたようだ。
「私としてはアリアには何日でもいてもらいたいですけれど、これからどうなさいますの?」
バーサがパトリックに向かって尋ねる。
「そうだな……。すまないがアリアをこのままこの邸に置かせてもらえないか?」
パトリックは神妙な面持ちで続ける。
「僕はしばらく城に泊まり込みになりそうなんだ。アリアひとりで公爵邸に帰ればまた危険に晒されるだろう。……あの継母を何とかしない限りは」
苦虫を噛み潰したような顔でパトリックは奥歯をギリッと鳴らす。
「承知いたしましたわ」
「なにからなにまでありがとう、バーサ」
「いいのよ。だって、私とあなたの仲だもの」
バーサのその発言にサディアスの眉がピクリと動いたことには、だれも気がつかない。
夕食と湯浴みを済ませ、あとはベッドに入って眠るだけだった。
あてがわれている居室に、リトルフ侯爵邸のメイドがうろたえたようすで「王太子殿下がお見えです」と言うものだから、アリアは「へ、ぇっ!?」と頓狂な声を上げて驚嘆した。
「……邪魔をする」
不機嫌そうな顔でサディアスが部屋のなかに入ってくる。
侯爵邸のメイドは紅茶の支度をしていたが、サディアスは「下がっていい」と告げて給仕を断った。
「あ……申し訳ございません、このような恰好で」
アリアはネグリジェの胸もとを押さえてうつむく。突然の来訪だったから、着替える時間がなかった。
「いや、気にするな」
サディアスはあらぬほうを向いて言った。
(……どうして目を合わせてくれないの?)
彼はなにかに怒っているのだろうか。サディアスの口もとが少しも弧を描いていないのが気がかりで仕方がなかった。
「その……どうなさったのですか?」
思い切って尋ねると、サディアスはようやくアリアのほうを見た。
「……きみと、もっと話がしたかった。レディ・リトルフとはたくさん会話しているのだろう?」
「え? ええ……」
なぜここでバーサの名前が挙がるのかアリアにはわからなかった。
サディアスと、無言で見つめ合う。
(いまって……想いを伝えるチャンスかも)
伝えたからといって叶うとは限らない。でも、伝えないことにはなにもはじまらない。